この記事では武士道を特徴づける「7つの徳目」のひとつ「仁」について解説します。
単に「仁」とはどういう教えだったか?というだけではなく、次のような視点を大切にしています。
- 「仁」の真の意味するところは?
- 「仁」は現代の私たちにとってどんな存在か?
- 私たちはこの「仁」をどんな風に活用していけばいいのか?
私たちが今もなお受け継いでいる武士道に、心理学の要素を交えながら、現代の教訓として活用していく。
それが私たちココロエの目指すところです。
- 人としての「在り方」とは何なのか知りたい。
- 自分の「在り方」を見つけたい!決めたい!
そういうことを考えている方には、何かヒントがあるのではないかと思っています。
是非最後まで読んでみてください。
「仁」の目指すところ
「仁」とは、愛や寛容さを意味します。
身近な言葉でいうと、優しさ、思いやりという言葉が当てはまります。
武士道では「義」が最も重要と考えられていますが、その「義=正しいこと」を判断する際の大前提として、この「仁」が不可欠と考えられています。
つまり「他人を思いやらない正義」や「人に優しくない正義」というものは存在しないということになります。
時に、人を断罪しようとしたり、他人にまで強要しようとするような「正義の暴走」を食い止める最大の抑止力となるのがこの「仁」です。
儒教第一の徳
武士道は儒教の影響も強く受けていますが、儒教ではこの「仁」が第一の徳目となっています。
そのため儒教の中には「仁」を特徴付けるような表現がいくつも残っています。
仁は人なり
中庸
仁とは人への思いやりのことであり、思いやりがあるからこそ人と言える。
というような意味ですが、つまり、思いやりがなければ人ではないという意味でもあります。
巧言令色(こうげんれいしょく)すくなし仁
論語
口がうまく良い顔ばかりする人は思いやりのある人ではない。
仁は人の心なり、義は人の正路なり
孟子
仁は人として身に付けねばならない心であり、義は人としての正しい道である。
「仁」と「義」の関係性が分かり易く伝わる言葉です。
ちなみに、最近はあまり使われない言葉ですが、日本では「あのお方」という意味で「あの御仁(ごじん)」という呼び方があります。
「仁」という言葉を「人そのもの」を表す言葉として使っています。
そういったことからも「仁は人として不可欠」というような印象を強く受けます。
武士の情け
「武士の情け」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。
「武士=強者だからこそ持つべき優しさ」というような意味で理解すると分かり易いと思います。
武道の世界などで、勝者が敗者の目の前で思いっきり喜んだりすることを良しとしないのは、敗者に対する思いやりの心です。
強者としての敗者や弱者に対する情こそ「仁」の心です。
ただ、一言で優しさと言っても、場面によっては苛烈な一面が見えることもあります。
戦場で敵を打ち倒した時、できるだけ苦しまないよう最後のとどめを刺す…
ドラマや映画や漫画などでそういうシーンを目にしたこと、ありますよね。
例え敵であっても、敗者に最後の情けをかける…
これも「武士の情け」です。
切腹の場面における介錯人の役割は、まさにこの意味から生まれたものと言えます。
切腹の際、苦しまずに死ねるようにすぐに首を刎ねる役割の人。同じ家の中で最も剣の腕の優れた人が選ばれた。
私たちにとっての「仁」とは?
現代ではさすがに誰かのとどめを刺す必要はないですが、「仁」の意味するところは今でもほとんど変わっていないと思っていいでしょう。
ただ、そもそも私達自身が「優しさ」というものをきちんと理解できているかどうか?は、ちょっと疑問を感じる部分もあります。
伊達政宗はこんな言葉を残しています。
仁に過ぎれば弱くなる
伊達政宗
「仁」も行き過ぎると弱さへとつながるというような意味です。
ここからは私たちが誤解してしまいやすい優しさや思いやりについても見ていきたいと思います。
優しさと甘さ
優しくしているつもりが、ただ甘やかしているだけ…というケースは、よくある事ではないでしょうか。
優しくしようと思うあまり、間違ったことをしても、叱ることも、注意や指摘をすることすらもできなくなってしまう…
子育てや人材育成の場面で、現実によく起こっていることだと思います。
優しさというのはこちらがどう働きかけたか?よりも、その結果が相手のためになっているかどうか?が重要です。
間違ったまま放置されることは、学びや成長の機会を奪うこととも言えます。
結果的には優しさどころか、むしろ冷たい仕打ちとも言えるでしょう。
「武士の情け」のように、本当の優しさには、どこかで厳しさが伴うことも起こり得るのです。
愛のムチ
次は真逆の発想です。
「優しくすることが甘えを生み、相手をダメにする」という考えから…
「厳しくすることこそが本当の優しさだ」という極端な解釈になっていることもよくあります。
今では少なくなってきてはいると思いますが、私のような昭和の人間の多くがこういう育てられ方をしてきました。
「体罰」を良しとする発想もこういうところを原点として、更に極端な解釈がされたものと思われます。
優しさには厳しさが必要な場面はあり得ますが決して必須ではありません。
人の「和」
恐らく日本人が最も大切にしているかもしれないもの…
それは「和」です。
私たちは他人との「和」をもっとも大切にしている…
または、もっとも気にしてしまっている…ということは間違いないでしょう。
恐らくこれは、狭い島国という日本の土地柄によって、周りとの調和が不可欠なものだった影響が強く残っているからだと思われます。
この「和」が助け合いや協調性、一体感を生み出し、日本人の思いやりや慈悲深さといった「仁」を支える要素につながっていることは間違いありません。
しかしその半面、この「和」が「周りがやってるんだから合わせなければならない」というような「同調圧力」として、私たちを縛り付けることがよくあります。
それが時として「人と同じ=正しい」という極端な解釈を生み、結果的に自分を押し殺してでも周りに合わせようとすることになります。
いわゆる「自己犠牲」の一つです。
「和」を大切に思うほど、ハマりやすくなるため、現代でも多くの人の悩みの種になっています。
真の優しさを身に付けるために
では、真の優しさを実践するためにはどうすればいいでしょうか。
ここからは、真の優しさを持つために有効と思われる考え方や心構えについて解説していきます。
和して同ぜず
意味のない「同調圧力」を受けないための大切な心構えが儒教の中にあります。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
論語
立派な人は周りと交流しながらも、もむやみに同調したりはしないが、つまらない人は同調ばかりする割に、心からの交流はできていない。
というような意味です。
人間関係における「距離感の極意」とも言える、素晴らしい言葉だと思います。
「共感」と「同調」は違います。
相手の意見や気持ちに寄り添い、同じ感情を共有しようとすることが「共感」です。
分かり易く言うと、意見が合うか合わないかは関係なく、互いに「気持ちは分かる」ということです。
「同調」とは、ただ同じ調子に合わせること。
自分は違う考えだったとしても、ただ相手に合わせて賛同することです。
「同調圧力」によって、同調ばかりを求めるような人ほど、実は本当の関係性は築けていないということです。
そして気を付けたいのは、その圧力に巻き込まれてばかりの人にも同じことが言えるということです。
武士たちが最も信じようとしていたのは自分自身です。
最後の最後に戦場で頼れるのは自分の力しかありません。
自分が仕える家などの組織が大切だったのはもちろんですが、そう思うからこそ自分という一個人の向上が不可欠でした。
合わせるところはきちんと合わせながらも、常に「自分」を持っていること。
こういう時にこそ「嫌われる勇気」が必要となります。
決して、自分の主張は常に言葉にして表せとかそういうことではありません。
黙っていても構いません。
ただ、きちんと持っていること。
そしてどうしても譲れない時に、自分の意志を優先できることが大切です。
そこまでできるようになると、本当の意味で他人の思いを汲み取ることができるのだと思います。
他人を受け入れるということ
「優しさ」とは人を受け入れる力です。
自分の意志はありながらも、他人の意志も尊重できる…
それが受け入れるということです。
自分に意志があるように、他人にも意志があります。
言葉にすると当たり前にしか聞こえませんが、私たちはすぐに自分だけが正しいかのように思い込んでしまうことがあります。
これには武士道「義」も関係してきます。
どちらが正しいのか?
常に決着をつける必要はあるのでしょうか?
「どちらもそれぞれに正しい」と考えることが、相手を尊重する心を育てることになります。
また逆に…
謙虚さを出し過ぎたり自分に自信がなかったりすることから、他人だけが正しいと思ってしまう人もいますね。
それは他人を受け入れているというよりも、自分を受け入れていない状態です。
つまり、他人の意見に「賛成している」のではなく、ただ「合わせている」だけです。
他人を受け入れるためには、自分を受け入れていることが大前提となります。
人を許すということ
人の行動に対して「許せない」と感じた経験はありますか?
「人から攻撃を受けた」というような場面から「人の何気ない行動に苛立ちを感じる」というような些細な場面まで含めれば、恐らく誰もが一度くらいは経験があるでしょう。
人の「許せない行為」とは、自分に対して「許していない行為」です。
例えば、待ち合わせに遅刻をする人を許せないと思う人は、自分が遅刻をすることを許せないからです。
つまり、人を許そうと思うなら、自分を許すことが必要になってきます。
どこまで許せるか?
それは自分で決めるしかないですが「許し」とは「癒し」でもあります。
許せない人が多いと感じる人は、自分にもたくさんの制限をかけているということです。
もしそれによって強いストレスを感じるようであれば、改めて「自分自身への許し」について、考えてみることをお勧めします。
人を許すということは、自分を許すことから始まります。
ただし…
誰もが当てはまる事例ではないですが、犯罪被害などの場合に、相手を許さないことで自分を保つことができる…という場合もあります。
優しさと強さ
人に対する優しさや愛は、その人の強さでもあります。
新渡戸稲造の「武士道」にはこんな言葉があります。
最も剛毅な者は最も柔和なる者であり、愛あるものは勇敢なる者である
新渡戸稲造
そもそも強いからこそ、他人にまで優しさや愛を注ぐことができるのです。
そして、他人に優しさや愛を注ごうとすることによって、更に強くなっていくのです。
どちらが先か?ではなく、双方向に影響し合うものです。
真の強さと優しさがともなうことで、本当の意味で自分以外の人を守り、愛することができるようになります。
自分を大切にできること
ここまで、武士道「仁」について解説してきました。
「仁」は誰かのためを思う心であり、まぎれもなく私たち日本人にとっての大切な美徳です。
ただ、そこには日本人だからこそ特に忘れてはいけない大前提があります。
それは「まず自分を大切にできていること」です。
「自分のためには頑張れないけど誰かのためなら頑張れる」という言葉に色んなところで出会います。
この気持ちはとてもよく分かりますが、現実問題として、自分に対してできないことを他人にだけしようとすることにはかなり無理があります。
人間は自分が持っている物しか人に与えることはできません。
自分でお金を稼ぐなど、自分にお金を与えられない人は、誰かにお金をあげたり貸したりすることはできません。
もちろん一時的に借りてくるなどしたら渡すこともできますが、それを続けていくことは困難です。
同様に…
自分に優しさを与えられないのであれば、人にも与えられません。
一時的な優しさでなら接することはできても、やはり続かなくなっていくのです。
誰かのために自分を犠牲にする。
自己犠牲の精神を美徳だと考えるのは、日本人に多くみられる特徴です。
もちろん誰かの命に関わるような場面で、命がけで自分の身を犠牲にするというような行動は究極の優しさではあると思います。
しかしそこまでの場面は誰もが遭遇するようなものではないので、ここでは外して考えています。
ここでお伝えしたいのは、誰かのために自分だけ我慢しておけばいいというような場面です。
自分のためになっていないことを、一時的でなくずっと続けるということは、どこかで必ずひずみを生み出します。
自分がただ我慢を続け、満たされないままで、人に与えられるものなど実は何もないのです。
何も持っていないから、自分の身を削って与えるしかない状態に陥っていきます。
子育てや誰かと愛を育もうとするような、本当なら幸せなはずの場面で、ただただ消耗していくかのように感じた経験はありますか?
もし「ある」という方は、それは「自分のため」ということを忘れてしまっているからです。
誰かのために何かをしたいと思ったら、まず自分を大切にすることから始めましょう。
まとめ
私たちココロエでは、武士道に心理学の要素を加えながら「自分だけの武士道を作ろう!」ということを目的としています。
私たちは、武士道「仁」を次のように定義したいと思います。
- 人も自分も許し受け入れる力
- 人も自分も大切にできる心
武士道は「神道、仏教、儒教」の考え方が入り交ざった、何でもありのいいとこ取りの教えです。
武士道に正解はありません。
是非あなたも、自分の大切な価値観を混ぜ合わせて、自分なりの武士道を作ってみませんか?
音声配信
音声による簡単解説もあります。
武士道を学んでみよう!
武士道×心理学
無料体験講座開催中。
ココロエでは武士道を心理学的に解釈することで、単なる知識や文化としてではなく「生き方の指針」として活用する方法をお伝えしています。
まずはあなたの中にある武士道を見つけてみませんか?