自分史

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プロフィール

平野尚紀(ひらのなおき)

いまここ!
  • 全米NLP協会公認NLPトレーナー
  • 米国NLP&コーチング研究所認定DSRトレーナー
  • 米国NLP&コーチング研究所認定NLPマネークリニックトレーナー
  • 日本NLP協会認定NLPセールスコンサルタント
  • 会社経営者
  • メンタル心理カウンセラー&上級心理カウンセラー
  • サムライスタイル 運営
  • ココロエ 運営

生まれ

1969年7月、三重県伊勢市の料理旅館「京家/白塚屋」の三代目として生まれる。

育った環境

旅館の前は芸子の置屋だったこともあり、居間で芸子が三味線の音合わせをしている中で日常を過ごす。

酔っ払いのカラオケがBGMで、酒を飲むと立派な大人がどうなるかという姿や、それをあしらう女性たちの姿も散々見てきたため、水商売の世界には偏見も抵抗もなく育つ。

芸妓や仲居に囲まれる完全な女社会で育ち、女性特有の揉め事は日常。

古いしきたりの残る家だったため、大人から教わる常識的教育はまさに武士道で、男気や義理人情に強く憧れるようになる。

伊勢神宮の外宮に近いため、外宮は公園代わりの遊び場。

門前町という環境から、同級生たちも会社員家庭は少なく「〇〇屋の子」が多かったため、自分の育った環境が特殊だと思ったことはなかった。

家でも学校でも、まだまだ体罰当たり前の時代で、超学歴社会でもあり、常に誰かとの比較の中で育つ。

父は板前、母が女将、3学年上に姉がいる。

旅館を開いた祖父が幼い頃に亡くなり、4人家族の他に、当時は父方の祖母と住み込みの仲居さん数名が同居していた。

地元の企業の宴会や、経営者層、政治家などの宴会で利用される旅館でもあったので、それなりに裕福な家庭ではあった。

10歳頃~中学時代

両親の夫婦喧嘩が繰り返されるようになり、やがて父親が家出。

家業と二人の子育てに余裕を失った母が、「この世界は女が主役だから継ぐな!一流大学を出て一流企業へ行け!」という教育方針へ。

小学校から家庭教師をつけられ、成績は勝手に伸びる。

姉が早々にグレてドロップアウトしたことで、母の夢の全てを一人で背負わされることになる。

母は息子が夢を見ると不安になるようで「何の才能もない、何もできない子だから、勉強して会社員になるしかない!」と、事あるごとに言い続け、子供ならではの自由な夢は、思い描くことさえ許されず、潰しにかかってくるようになる。

唯一甘えられる祖母も、祖父の3人目の内縁の妻という立場で、実は血縁も戸籍もつながりがなかったこともあり、大人の事情というヤツで中学生の頃に別居。

母の圧力を一人で受ける事になる。

アダルトチルドレン誕生

母は、勉強させようとするというより、勉強以外何もやらせないという方針。

実の母から、やりたい事の全てに反対され、「何もできない子」と否定され続ける効果は絶大で、虚勢は張れても常に自信がなく臆病で、母の顔色ばかり気にしてしまうアダルトチルドレン(AC)の誕生となるが、この頃にはもちろんその自覚はない。

家庭教師の他に塾や習い事(剣道など)も全て強制で、子供ながらに反発はするが、母の圧力には勝てず、最後は必ず言いなり。

ここから、いつか母親に自分を認めさせることが、何十年にも渡る人生最大のテーマになってしまう。

何かにつまづく度に「どうせ俺は何もできないから」と結論づけるように育つが、心のどこかで不思議と「いつか自分はすごいことができるんじゃないか?」という、ほとんど妄想みたいなものをいつも夢見ていた。

その根拠のない夢みたいなものを捨てきれなかったことが、結果的に自分の人生を救うことになる。

三国志にハマる

この頃、NHKで放送されていた「人形劇三国志」にハマる。

以後、大人になった今も三国志に関する漫画やゲームなどが好き。

この時、三国武将の生き様に憧れたことが、後に武士道を学ぼうと思う最初のきっかけだったと思っている。

高校時代

1985年4月、三重県立伊勢高等学校入学。

家庭教師のおかげで、地元では一番の進学校に入学。

紛れもない人生の分岐点。

バンドに出会う

友人の影響でバンドを始める。

生まれて初めて親に隠れて「自分の意志で始めたこと」であり、「俺は何もできないヤツなんかじゃない!」と思い始めるきっかけ。

ブルーハーツのコピーバンドで、楽器を買えないという理由だけでボーカル。

バンドの最大の晴れ舞台である文化祭を自分たちの優位に進めるためだけに、友達同士で誘い合わせて生徒会役員になったりとやりたい放題。

自分は、最前面には出ずにそれなりに権限のある副会長というポジションをゲット。

学校以外でも、とにかくバンドをやっていたくて、自分たちでLIVEを企画したりするようになる。

悩み相談に乗る

何でも話せる友人ができた事で、相談に乗る機会が自然と増える。

親友とは朝まで電話で互いの悩みを打ち明け合ったりするようになった。

まだ携帯のない時代で、家の電話代が跳ね上がり、母親との揉め事の種にもなったが、後に心理カウンセラー資格を取ろうとする土台はこの頃生まれたことになる。

落ちこぼれる

家庭教師のおかげで高校までは進学できたが、自分なりの勉強方法が一切構築されておらず、家庭教師がいなくなった途端に成績は落ち続け、死ぬほど勉強嫌いになる。

体罰担当だった母も、自分より大きくなった高校生の息子を殴る事には恐怖心が芽生えたようで手が出せなくなり、また、言葉の圧力は、真正面から受け止めずに聞き流すということも覚え始める。

ほぼ母をシカトできるようになったことで、好き放題遊びまわるようになり、高三の進路相談では、本来なら担任と一対一のはずが、母が呼び出されての三者面談になる。

三者面談にて「家では一言も口をきかず、こんな根暗な子で本当に大丈夫でしょうか?」と母が担任に詰め寄り呆然とさせたが、そのやり取りを見て初めて自分が家でどんな子供かが理解できた。

中学までは学年上位の優等生で、高校から学年ほぼ最下位という、両極端の経験は貴重。

一応大学受験はしたが、当然全て不合格。

とにかく勉強したくないという理由だけで、大学へ行かずに就職したいと考えていたが、ここだけは絶対に譲れない勢いの母を説得できるほどの熱意があった訳でもなく、結局浪人することになる。

一浪

名古屋の予備校に通うため、初めての独り暮らしを始めたが、勉強の妨げになるからという母親の意見で、TVすらない生活。

予備校以外で人の声すら聞けない孤独と自炊もまともにできない状況から激痩せし、わずか数ヶ月で実家に呼び戻される。

予備校でも一対多数の普通の授業形式がどうしても馴染めず、ほぼ自宅だけで勉強するようになる。

一年浪人するからには志望校を!というプライドがやっと芽生えたことと、大学に行ったらとにかくバンドをやろう!という目標が持てたことで、ついに自発的に勉強開始。

自分の勉強方法が確立していないため、1日のノルマを決めて、それが終わるまでは辞めないというルール。

高校時代の基本的な部分が全く理解できていないため、理解することは諦めて、ただ丸暗記するという作戦。

最後は志望校の過去問だけをひたすら繰り返す等、色んな対策が身を結び、どうにか志望校に合格した。

大学時代

1989年4月、南山大学経営学部入学。

名古屋で二度目の独り暮らし開始。

実家を離れてついに自由を得た気分。

「一流大学⇒一流企業」と型にはめようとされ続けてきたことへの反動から、とにかく「人と同じ人生なんて生きたくない」と考えるようになる。

バンド活動

高校時代のバンド仲間でもある先輩の誘いで、軽音学部のような部活に入部。

そこで出会ったメンバーと「プロを目指そう!」と誓い合い、オリジナル曲を作りまくってライブハウスへ進出。

当時はまだ一般的に受け入れられていないパンクだったため、プロになれたとしても食っていけないだろうことは自覚していたが、アルバイト暮らしのミュージシャンで十分だと考えていた。

デモテープを作ってライブハウスに持込んで出演交渉、LIVEが決まればチラシを作って楽器店やレンタルスタジオなどに貼らせてもらう、中古レコード店でデモテープを売らせてもらうなどの地道な活動。

LIVEチケットは買い取り制で手売り。

売り切らないとギャラは出ても結局持ち出しになる。

今振り返ってみると、これはもう完全にビジネスであり、この頃既にビジネス経験をかじってた事になる。

アマチュア無名バンドのビジネスは非常に苦しくて赤字生活だったが、それも含めて「自分達で作り上げている!」という充実感で一杯だった。

何より、音楽を通じて、自分たちの思いを不特定多数の人に表現できることへの喜びは、何物にも代えられないものだと思っていた。

完全にバンド中心の生活で、アルバイトを始めても、好きに休めないなどバンド活動に支障が出るとすぐに辞めるという繰り返し。

親からの仕送りはあっという間に底をつき、家賃も満足に払えない状況に。

米だけは実家から送られてきたので、毎日2食雑炊だけでしばらく過ごすなどを繰り返し、見かねた同級生が飯をおごってくれたりという極貧生活も経験した。

とても自立して食べていけるレベルではなかったが、バンド活動のおかげで、「もう自分は何もできない子供ではない!」という自信を見つけることができた。

その自信をつけたことで「人と違う人生を生きたい!」だけじゃなく「人と同じ人生だって生きられると証明したい!」という思いが浮かび始める。

メンバーの1人は、プロになる前提で既に大学を中退していたが、その他私を含めた3人は就職という事になり、解散を決意。

直後のライブ終了後、ライブハウスの担当者から「事務所に紹介しようと思うんだけど!?」というまさかの提案をもらったが、既に腹は括られていたので、丁重にお断りさせていただいた。

就職活動

バンド活動をそれなりにやった!という自負があるからこそ、就職活動にも本気ではあったが、逆を返すとそれを証明したいだけという中身のない動機。

会社選びの基準は「有名企業であること」と「海外赴任の可能性があること」で、海外赴任は、外国で暮らしてみたいという漠然とした思いだけ。

有名企業を選びたがるのは、まさに学歴社会の思考回路であり、せっかく母親の支配から抜け出そうになっていたところを、「母親に認めさせてやる!」という思いから、自ら舞い戻ってしまったことになる。

バブル崩壊直後で、誰もが手探り状態の中、志望した企業は全て不採用。

一つだけでも内定を取りたい思いから、たまたま生保でリクルーターをやってた先輩を頼って、全く志望してない上に、終わりかけの採用活動に紛れ込ませてもらい、どうにか内定確保。

全く志望してなかったこともあり、内定を断って就職浪人として一年間海外留学した上で翌年にかける、という考えも芽生えたが、ゼミの教授から、翌年は同じ会社からも内定がもらえない時代が来る!と言われて入社を決意。

海外赴任の可能性はほぼない採用だったので、海外への憧れは、卒業旅行代わりに3週間のツアー型ホームステイに行くという形で濁した。

23歳:会社員に

1993年4月、安田生命保険相互会社入社。

引き続き名古屋で、社会人生活のスタート。

ブラック企業やハラスメントという言葉もなかった時代で、逆を返せば多くの会社が少なからずブラック要素が残っていた時代。

営業手当という便利な手当てだけで、無制限の残業や休日出勤が日常。

入社2年目頃に初めてパワハラ上司に仕え、毎日、何度も罵倒され続けると、自分はダメなヤツなんだと本気で思い始めるという事を実体験した。

ただ、金融機関のため、数年で転勤になると分かっていたことと、母親のおかげか、何を言われても真正面から受け止めない「かわす」スキルが身についていたことで、耐える事ができた。

初めての役職

入社4年目、27歳で営業所の所長になる。

実力ではなく、そういうコースで入社していた。

本来の職階は主任だが、営業現場でのみ所長という扱いであり、実際の実力で考えても中身は空っぽの肩書きだった。

実力なく肩書きを持つことがどれほど苦しいかという事と、名刺で見る肩書にはほとんど意味がないという事を思い知った。

部下のほぼ全員が自分より年上の女性という状況で、何をするにもビクビクして、実家にいた頃の自分に戻ったかのようだった。

当然仕事ができなさ過ぎて、わずか一年で転勤。

退職を決意

28歳、入社5年目。

今の定義に当てはめると、パワハラというよりはモラハラ系上司に仕えていたが、当時はそういう人が割と当たり前にいて、特別な存在だとは思っていなかった。

ただ、直上司からの祖母の葬儀に関する発言をきっかけに、「これ以上ここにいてはいけない!」と思い退職を決意。

最期のつもりで開き直って、最低限の仕事だけに集中!

開き直ってみると、年上部下に対しても「母親より厄介な人はいないな」と気付き、恐怖心もなくなり、年間数字を早々に達成した段階で、退職の意志を告げた。

予想通りの慰留には退職意思は変わらなかったが、またも1年で転勤発令。

ただその転勤先は上司の意向を本社が無視したとしか思えない場所だったため、かすかな興味を感じ、とにかく行ってみようと思えるようになった。

仕事のやりがいを知る

新任地でついに本当に尊敬できる複数の上司に出会い、初めて仕事のやり甲斐と楽しさを知る。

ただし、良い時も悪い時も転勤はやってくるため、退職意志自体が変わる事はなかった。

むしろ、退職するためにこそ最高の仕事を!という感覚になり、以後、退職タイミングを探しながら仕事を続けることになる。

33歳:結婚

あまり歓迎されない社内結婚のため、ひと波乱あり。

改めて退職意志を固め直すも、1人ではなくなったので、しばらく様子を見る。

会社の統合

2004年1月1日、安田生命と明治生命が合併、明治安田生命になる。

人材過多となったため、早期退職制度の年齢が35歳~に引き下げられる。

ちょうど35歳になるため、ここが最後のチャンスと思い手を挙げたが、ただ辞めたいだけで何をやりたいわけでもなかったので、上司の説得を覆す事はできず、一度は断念。

会社を辞めるためだけにやりたいことを探したが、せっかく辞めるのにまたどこかの会社に入社するという選択肢はどうか?と思い始め、起業を考えるようになる。

ネットで見つけた人材派遣での起業支援という制度に応募し、二度目のチャレンジで上司の説得に成功した。

そのまま黙って退職すれば良かったものを、母親にも認めさせたいという思いが頭をよぎった事からわざわざ報告してしまい、数十年ぶりの大喧嘩に発展。

まさか35歳の既婚の男が、妻の許可も得て会社を辞める事を、そこまで猛反対されるとはさすがに思っていなかったのが甘かった。

何度も電話で怒鳴り合い、最終的に夫婦の意志として黙ってもらうことはできたが、認められる事はなかった。

退職

2005年4月、勤続12年で退職。

入社5年で退職を決意し、実際に退職するまで7年かかった。

35歳:起業

2005年5月、株式会社ミドル・アース開業。

某組合の有料の起業支援に応募する形で起業。

人材派遣ではなく、軽作業での業務請負としてスタートし、後に特定労働者派遣業に。

なぜ人材派遣を選択したか?というと、管理職を長く続けてきたから「自分にもできるかもしれない!」と思ったから。

つまりこの段階でもまだ、自分のやりたいことを選択していない。

妻と二人での出発だったが、伊勢出身の私と横浜出身の妻、転勤も多く一か所に留まった経験がないため、どこで開業しようか迷い、学生時代~新入社員時代を過ごした名古屋を何となく選択。

何となく選んだ名古屋で、全く異業種で、完全にゼロからのスタートという、無知でなければできなかったことをやらかした。

ただ、愛知万博が終わろうとしている時代で、どこもかしこも人員不足。

組合の関連企業から仕事を回してもらったりと不慣れながらも事業を始める事ができた。

万博終了後は、軽作業中心から配膳サービス等、接客系メインの派遣に少しずつシフトしてて、事業を拡大していった。

この頃、まだまだ仕事が少なく時間的余裕があったので、業務上必要なもので自作できるものは何でも自作にチャレンジするようになる。

何事も専門家に頼むと当然お金がかかるが、その価格価値を知りたいという好奇心もあった。

  • 起業に関する手続き全般
  • 会社のロゴ
  • 名刺
  • Excelで売上管理~請求書作成まで
  • ホームページ
  • 給付金や助成金、融資手続き

以後、これらのことは、時折専門家に頼んだりしつつも、基本的には今現在も自作で、時には身近な人から有償で依頼されることもあり、かすかな副業にもなっている。

リーマンショック

2008年9月。

現場のスタッフから登用した社員8名を抱え、それでもやっと黒字化できるようになった翌月に、リーマンショック。

これまでの3年間で築き上げてきた物が、一気に崩れ去っていくのを目の当たりにした。

事業の多角化へ

どこもかしこも派遣切りになり、日増しに仕事がなくなっていく状況下で、たまたま営業を受けたことをきっかけに、ケータイスタンプシステムの販売を開始。

まだガラケー時代で、おサイフケータイを活用したスタンプカードのようなシステムで、当時としては画期的だった。

社員の給与とそのシステムを販売する権利取得のために融資を受け、これに失敗したらお終いだと思っていたが、思うような成果につながらず。

保守的な名古屋という市場は、「どこのお店もまだやってない物」よりも「あのお店もやってる物」や「東京で大ヒット」等でないと、新しい物は中々受け入れられない事を知る。

結果的に社員8名中7名に辞めてもらう形となったことで、どうにか会社の存続はできた。

FC居酒屋開業

2010年10月、FC(フランチャイズ)で居酒屋を開業。

一人だけ残った社員が飲食経験者だったことから、その力を活かそうという考えで始めた。

ここでもまた設備資金を中心に、融資を受けて、最後の再出発という思いだった。

東日本大震災

翌2011年3月11日、東日本大震災が発生。

メイン食材の仕入れ先は全て三陸地方だったため、営業できない状況に陥る。

FC本部としての対策や方向性が示されず、売り物のない状態でお店を開けるような状況と同時に、被災地に関係なく日本中が自粛ムードとなり、経済が停滞。

夜の街から人影がなくなってしまった。

この時のFC本部の対応や、その後連絡すらも取れない状況が続いた事に不信感を抱き、FCからの独立を決意。

ここまできて完全に融資の返済ができなくなり、金融機関に交渉して返済猶予を受け入れてもらうことで、会社は存続できた。

FCから独立

2012年にFCから独立し、あみやき食堂さかな花まる開業。

自分たちの判断で営業できるようにはなったが、街から消えてしまった人影はもう戻ってこなかった。

ほぼ、自分達の知り合いだけの来店で営業しているような状態が続き、1年半で閉店を決意。

居酒屋をやって最も意義があったことは、自分にはこんなに友人がいたのか?と思うほど、沢山の友人が来店してくれたこと。

中には、中学や高校卒業以来の友人がFBなどで存在を見つけて来店してくれた。

個人相手の仕事を初めてやった事で、自分を応援しようとしてくれてる人がこんなにもいるんだと言う事を知り、改めて感謝を感じた。

44歳:心理カウンセラー資格取得

居酒屋に限界を感じ始めた頃から、愚痴聞きや話し相手サービスの開業を検討。

それと並行して、心理カウンセラー資格の取得を目指し始めた。

ただの話し相手サービスだけでは物足りないと感じた事と、高校生の頃からずっと友人の相談に乗る機会が多かったこともあり、これが自分の長所ならば形にしたいと思ったことがきっかけ。

2013年3月、メンタル心理カウンセラー資格、同年5月、上級心理カウンセラー資格取得。

話し相手サービス開業

2013年2月、話し相手・悩み相談・愚痴聞きサービスのすまいるスイッチを開業。

ネットで見つけた開業サービスを利用した。

副業で開始したことから、急な予約に中々対応できず、満足に宣伝もできないまま、しばらくしてサービス休眠の状態になる。

武士道の講義をする

2013年8月。

同じく居酒屋の限界を感じ始めた頃、自分が本当にやりたい事を模索する中で、マナー講師である友人との何気ない会話から、専門学校で武士道の講義をする話が持ち上がる。

そこから初めて武士道を学び、わずか一年後に専門学校のサマースクールの一コマとして実現。

叶えたい思いがあるなら人に話すべきという事を実感。

コンパニオン派遣開始

居酒屋の閉店とほぼ同時並行で、2013年夏頃からコンパニオン派遣を開始。

ケータイスタンプ時代の顧客がラウンジを経営しており、派遣業もやってるなら夜の派遣もやってほしいという提案を受けた事がきっかけ。

合同事業としてのスタートとなった。

夜職という偏見の多い世界に進出するに当たり、色んなリスクが懸念されたため、元々の会社とは切り分け、休眠会社を安く購入して事業を開始、社名を株式会社SAKURA CASTと変更した。

当初は完全な副業として事務所も構えずスタートしたが、何となく自作したホームページだけで仕事の依頼も求人応募も入ってくることから、本業にすることを決意。

創業期より何でも自作してきた経験から、名刺の作成や給与計算などの管理資料の作成、簡易なホームページの作成などの依頼も受けるようになる。

2017年からは、合同事業も終了して単独事業として事務所も構えることになった。

48歳:人生を生き直す

コンパニオン派遣がそれなりに軌道に乗ってきた頃、ふとしたきっかけから自分がアダルトチルドレン(以下、AC)だという事についに気付く。

そこから、心理カウンセラーとして、本気で自分と向き合う事となった。

その過程で、母親との関係性を始め、人生で感じた様々な違和感の原因が全て繋がり、そこから50歳までに人生の生き直しをする!と決意。

やりたいことは全部やる!という思いで、加圧トレーニングで人生初の筋トレを始めたり、海外一人旅に出たりと、時間がない、余裕がないなど、いつの間にか自分の中にできていた色んな制限を解放し始める。

結局、母親から認められる日はこなかったが、そもそも認められる必要などなく、自分で自分を認められるかどうかが大切だという事にやっと辿り着いた。

50歳:人生初手術

人生初の手術は、幸いなことにとっても軽いもの。

2019年2月、50歳にして早くも白内障になり、手術を受ける。

居酒屋をやっていた頃、数十年ぶりに再会した幼馴染が保険の営業マンだった事で、自分が勤めていた会社での契約を切り替えて加入した。

その際、友人の勧めで付加した先進医療特約のおかげで、高額レンズによる手術代全額負担+手術給付金×2(両目分)が支払われ、生命保険の恩恵を初めて受けることになった。

皮肉にも、自分が勤めていた会社から切り替えた事で受け取れたものになる。

以後、老眼もなくなったので、1年前に買った老眼鏡代だけが無駄になった。

またこの手術の翌日から、約30年吸い続けたタバコを、何の苦もなく辞める。

コロナショック

2020年、コロナウイルスの影響を受け、コンパニオン派遣としての仕事はほとんど入ってこなくなる。

配膳サービスとしても、宴会や披露宴、法事なども含め、大勢が集まれないため仕事はほぼゼロに近しい状態へ。

昼職も夜職もほとんど収入がない状況になるも、コンパニオン派遣を始める時に会社を二つに分けたおかげで、持続化給付金などの給付金を二社分受け取ることができ、どうにか会社も生活も維持することができた。

夜職の偏見のために分社したことが、約10年近い年月を経て、全く違ったメリットを生み出すことになり、奇跡めいたものを感じた。

52歳:NLPを学び始める

コロナ禍を生き残るために、事業転換を試み、いくつかの代理店事業に少額の資金をつぎ込みながら挑戦してみるも、大した成果も出ず…

そもそもその事業転換の決断をくだす自分自身そのものを転換することこそが、今後を生き残るための最良の選択ではないかと思うようになる。

心理カウンセラーとしての学びを深めることも考えたが、自分自身のこれからやりたい事の幅を広げる事を考え、NLPを学び始める。

約1年かけて、全米NLP協会公認NLPトレーナー資格を取得。

以後、NLP関連の講座を開催できる複数の資格を取得。

53歳:武士道×心理学開講

これまで学んできた、武士道や心理学に関するオリジナルセミナーとして『武士道×心理学』講座を開講。

会社を廃業

コロナ禍が終わっても、仕事量も人材も戻ってこないコンパニオン事業に限界を感じ、2023年12月にて、株式会社SAKURA CASTの廃業を決意。

事業の一つとして居酒屋の廃業は経験しているが、会社としての廃業は人生初の経験。

現在に至る…

著者:平野尚紀
ココロエ代表トレーナー
全米NLP協会公認NLPトレーナー/米国NLP&コーチング研究所認定DSRトレーナー/NLPマネークリニックトレーナー/日本NLP協会認定NLPセールスコンサルタント/武士道家/会社経営者/心理カウンセラー/サムライスタイル運営/ココロエ運営。
武士道を知ることで、自分の思い込みや人から作られた価値観が見えてくる。そこから卒業した時、本当の自分を生きることができるようになる。そんな思いを『武士道×心理学』という講座に込めて、お届けしています。
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